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第20章 近代西洋植民地主義の衝撃による東アジア諸国の関係変化(1)

(司会 池田嘉郎)

報告

植民地化の思想と近代アジア

新潟国際情報大学教授 越智敏夫

植民地主義と近代アジアの関係を論じるにあたって、まず植民地主義の基本的な構造について考察したい。その構造は国民国家形成nation state building と同時進行的に形成された。その国民国家形成とは特殊西欧的なものであり、三項目の達成によって成立する。主権の統一、領土の画定、国民意識の形成である。それは15世紀末のスペインに初めて出現するが、その後イギリス、フランスでも同様な国民国家が形成された。それらの国家は国民皆兵制による常備軍を維持しつつ、経済的には重商主義政策を採用し、その必然的結果として非ヨーロッパ圏への侵略、植民地化へと向かったのである。

この植民地獲得レースへの参加表明は1861年から1871年にかけての10年間に相次いで国民国家形成を達成したイタリア、日本、ドイツの三国で打ち切られ、それに間に合わなかった地域はすべて植民地化される立場におかれることになった。こうして非西欧圏における唯一の西欧型国民国家となった日本は、不幸にしてその西欧型の近代化を「優等生のように」模倣しはじめたのである。つまり日本の中央政府にとって植民地獲得の進展こそが自国の近代化の重要な指標のひとつだと認識されるようになった。こうして日本においてはアジアへの侵略の進展と近代化が同義になってゆく。20世紀初頭までには西欧列強と日本によってほとんどすべての非西欧地域が植民地化された。この西欧に起源をもつ国民国家という人間の集団化の方法が、非西欧圏において採用されるのは、ほとんどの場合、植民地化された地域の「独立」という形を待つしかなかった。

ここで考えなければならないのはマックス·ヴェーバーが論じたように「なぜ近代化はこうした形においてのみ起こったのか」ということである。言いかえれば「非西欧圏に自発的近代化の可能性はあったのか」ということであり、その問いはまた「海外植民地をもたない近代化はありえたのか」という問題へと展開してゆく。この問題にとって日本は悪しき例として植民地獲得の主体となっていくが、植民地化されずに国民国家形成をなしとげた社会としてはトルコとタイという「例外」も存在する。本来はその二つの国家についても言及しながらこの問題について考える必要があり、またこのアジアの近代化という問題を考えるためには詳細な歴史的事実の確定から始める必要があるのも当然である。しかし紙幅の制限もあるので、本稿ではこのアジアにおける近代化という問題を考えるための二つの視点を提示して議論の材料としたい。

まずひとつめの視点はアメリカ合衆国とアジア、特に中国との関係である。イギリス植民地政策への批判をもとに成立したアメリカは原理的に海外植民地を保持できない。したがって独立以降、新たに獲得したすべての領土は独立時の13州とまったく同格の州とするという国内政策が維持された。対外政策としてもモンロー宣言に代表されるようにアメリカ大陸外への進出を放棄する。しかし19世紀末にいたって、アメリカの西側国境が太平洋に到達し、いわゆる「フロンティアの消滅」という事態が生起すると同時に、資本主義経済の発展によって想定外の深刻な経済不況がアメリカを襲うと事態は一変する。その時点においてアメリカの外交政策は対外発展を志向するものへと転換したのである。アメリカ·スペイン戦争が勃発し、アジアにおいてはフィリピンの獲得、中南米においては強力な経済的覇権が確立されることになった。こうして海洋覇権国家としてのアメリカ合衆国が成立する。その方向性は必然的に中国への接近となるが、すでに西欧列強と日本が侵略していた中国にアメリカが入り込む余地はなく、その結果「門戸開放政策」をアメリカは主張せざるをえなくなる。

こうした経緯について考えると、アメリカによる「市場としての中国」への接近が現在にいたるまで100年以上にわたって継続していることは非常に大きな意味をもつと考えられる。アメリカにとって望ましい中国の像は、私の見るかぎり時代によって大きく変化しているが、アメリカ外交における中国への接近は一貫している。したがってアメリカがアジア、特に中国に対してどのように今後対応するのか、またアジア諸国はそれにどのように再反応するのかということが、アジアの近代化の検討のために重要な意義をもつはずである。

第二の視点は民衆の自意識である。国民国家形成のプロセスは植民地化する側と植民地化される側において同質な点もあれば異なる点もあるが、最大の相違点のひとつが民衆の自意識である。中世西欧において人々は封建領主に統治される民という意識をもち、いっぽうで全ヨーロッパ大にひろがるキリスト教信者としての意識も保持していた。その双方の意識が封建諸侯や騎士団など中間層の没落によって、また宗教改革によっておおきく揺らぐと同時に、主権の統一が国家単位でなされることによって、人々のあいだに近代特有の「国民」という一体感が形成されていく。こうして民衆のあいだに「国民意識」が内在的に形成されていった。

それに対してアジアやアフリカなどの植民地化された地域においては、こうした国民としての集団意識は内在的に発生せず、西欧列強による植民地化という「外からの衝撃」を主要因として形成される。明治維新期の日本における「尊王攘夷」運動を見てみても、それは攘夷という排外運動が、天皇制イデオロギーによる国民意識の形成とセットになっているという点に特徴があるといえる。

こうしてアジアにおいては植民地化という外からもたらされた危機によって国民意識が形成された。そのため国民意識の形成という近代的な営為の内部に、「近代」に対する反発も内包されるという複雑な構造が生じたのである。これは西欧における国民意識の形成と大きく異なる点である。政府主導の近代化が推進されると同時に、下からの国民意識の形成がその近代化を拒否するという状況が生じたのはこうした事情による。

だからこそ、アジアの近代化を検討するには民衆の意思表明についての議論が重要になる。多くのアジア諸国に共通する、政府主導の「上からの近代化」の検討だけではなく、民衆の自発的意思による「下からの近代化」の内実を検討する必要がある。それらの民衆の意見が向けられている対象も、西欧列強、自国の政府、前近代という「過去」など多岐にわたる。どの領域、どの権力に対して民衆が声をあげたのかを確認しなければならない。それらの問いはまた、国家権力から乖離した位相に自発的共同体が形成できているのかということ、またそうした共同体がどれほどまで国家権力に対抗する姿勢を維持できたのかということについての検討を要請するだろう。それらの複合的な問いに丁寧に答えることによってのみ、アジアの近代化という大きな問題への解答は得られると思われる。

中国、西洋の文化衝突と中国外交体制の変遷―「人臣に外交なし」の思想を中心に―

北京師範大学教授 王開璽

1.伝統的外交体制と「人臣に外交なし」の思想

「人臣に外交なし」という言葉は『礼記·郊特牲第十一』中の「人の臣たるものは、外交なく、敢えて君に二心なし」①から来ている。いわゆる「人臣に外交なし」は、その本来の意味あるいはそれ自体の文意でいえば、人の臣下となるものは外国と外交活動を行えないという意味でなく、臣下はもし君主の命令がなければ外国人と相互に交渉してはいけないこと、そして対外交渉の外交権がないことを強調したものであり、さもなければ外国と個人的に内通している疑いがある。

長い歴史の発展を経て、明、清において、東南アジア地区では中華帝国を中心とし、その他周辺の国家を属国とする東方国家関係の体系が形成された。この宗主国と属国関係のもと、清朝の官僚は朝鮮、ベトナム、琉球、ビルマなどの国に赴いたが、その身分は決して国家の外交官ではなく、清の皇帝を代表してその国を引き継ぐ国王を封ずる冊封使であり、その政治的な身分と地位は属国の大臣より高いばかりでなく、その国の君主よりも高く、中国と外国の間に「人臣外交」はありえなかった。

アヘン戦争前、西洋各国は相次いで使いを中国に遣わし、中国に近代的な国家関係を樹立するよう求めた。これは中国と西洋の外交体制の間に矛盾と衝突が避けられないこと、東南アジア地区の伝統的な宗主国と属国の関係も間もなく世界的な国家間交流関係に地位を譲ろうとしていることを暗示した。

2.中国、西洋の外交体制の衝突と「人臣に外交なし」思想の変遷

1793年、英国のマカートニー使節団が、1816年には英国のアマースト使節団が中国を訪れ、中国に多くの政治的、経済的、外交的要求を提出した。これらすべては、中国と外国の外交体制に間もなく衝突が起こり、伝統的な「人臣に外交なし」思想が西洋国家の挑戦にすでにさらされていることを暗示している。

1834年7月、ネーピアは両広総督に書面で通知し、自分は英国政府によって広州駐在商務監督として中国に派遣されたのであり、総督に対して直接面会するよう求めた。

両広総督である盧坤は清朝の「人臣に外交なし」体制の原則を引き続き堅持しようとし、「中国と外国の区別は第一に体制を重んじること」②と強調し、書信での直接のやり取りをきっぱりと拒絶した。中英双方はこのために何度も交渉し、このとき英国は中国に対して戦争を発動する力をまだ持たなかったので、ネーピアは9月に広州からマカオへ帰って行った。

1840年、アヘン戦争勃発後、清朝は依然として「人臣に外交なし」思想の原則を引き続き堅持し、ただ中級、下級の官吏を派遣して英軍との間に和平交渉の打ち合わせをさせた。しかし軍事上の要衝が相次いで陥落するにつれて、清朝の君臣における「人臣に外交なし」の理念が破綻し始めた。

1842年8月、英軍は南京城下に迫った。欽差大臣の耆英は情勢の悪化に直面し、道光帝の許可が届かない状況のもと、自ら英船に赴き、「この外国人の代表に会って」③英軍と「南京条約」を起草し、「人臣が外交を行う」方向に変化し始めた。

第二次アヘン戦争の間に咸豊帝が直面したのは、「人臣」に外交があるかないかの問題にとどまらず、「親王外交」を始めなければならないことであった。1860年9月、咸豊帝は怡親王載垣、兵部尚書穆蔭を欽差大臣として通州に急派し、英、仏と和平交渉させた。

通州での和平交渉が失敗に終わると、英、仏連合軍は北京城下に迫り、恭親王奕訢は「引き分けを監督して行う」よう④命じ、中英の「北京条約」調印式に自ら参加しなければならなかっただけでなく、さらには英、仏代表と互いに贈り物を送りあう儀礼的な付き合いを維持しなければならなかった。

第二次アヘン戦争以後、外国公使は北京に駐在し、同時に清朝も外国に駐在公使を派遣し始め、特に1873年6月29日に同治帝本人も外国公使に自ら接見した。清朝の「人臣に外交なし」思想と古い体制は根底から崩れた。

3.「人臣に外交なし」思想の変遷の歴史的必然

「人臣に外交なし」の思想体制は、中世における封建的な君主専制政治の産物であり、中国の伝統的外交体制、理念とともに適応したものであるが、国民国家形成後の近現代の国家との外交とは相容れるものではない。

中国が中国と外国のやり取りである外交の渦中に巻き込まれた後、清朝の官僚は中国と外国の間における外交理念の相違に素早く気づいた。欽差大臣·両広総督の耆英は第一次アヘン戦争の厳しい事実を通じてそれを感知し、そして西洋各国に使節として出かけた志剛らは中国と外国における外交の現実の違いを通じて認識するに至った。

アヘン戦争後、耆英は、時勢が変化したため清朝が外国と交渉するときは必ず「歩調を変え形を変え」、「人臣に外交なし」の古い体制を変えなければならないと上奏して述べた。この種の認識と変化は、清朝の君臣が中国と外国の情勢と国家関係を正確に認識したからでは決してなく、中国と外国の体制を区別する伝統の崩壊と、「人臣に外交なし」という旧体制の失敗に対する悲哀とやるせなさを如実に物語っているのである。

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