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第3章 自然環境

寧波の位置は以下のようである。東にある天台山、西にある会稽山と四明山、北にある海岸線が浙江省の最東部で相対的に独立した一つの流域を作り、余姚江と奉化江はそれぞれ狭い谷と平野を流れて中部の広い平野で甬江に合流して東海に注ぐ。この特別な地理環境は寧波地域の発展に独特な方向性と特徴をもたらした。

今からおよそ7000年前、第4期の大陸陥没後の隆起により、今日の甬江流域の平原の一部が次第に山麓から海岸となった。こうして、大陸になった麓の辺りは、新石器時代の先祖が活動する舞台となった。澄みきった谷川が流れている山口には、いまでも新石器時代の遺跡や遺物を見つけることがある。河姆渡遺跡がその時代にこの地域での豊かな社会生活を表している。稲作と耜耕農業、黒陶、高床式建築は、そのユニークで豊かな文化を表すだけではなく、更に歴史の長さによって、この地は中華民族の発祥地の一つでもあり、長江流域の早期人類社会の代表でもあるということを明らかにしたのである。

地域

寧波市は東海に接し、長江デルタ地域の東南部、浙江省の東北部、中国の海岸線の真ん中、浙江省寧(波)紹(興)平原の東に位置し、東経 120°55'~122°16'、北緯28°51'~30°33'に跨る。陸地では東西が175キロメートル、南北が192キロメートルに渡り、総面積が9817平方キロメートルある。地勢は西南部が高く、東北部が低い。南部が浙江省東部丘陵地に属し、くねくねと続いている天台山脈と四明山脈がある。山地、丘陵の面積が陸面積の 51.2%を占める。東北部と中部は寧紹沖積平原に属している。平野と盆地が陸面積の46.8%を占める。北、東、南の三方が海に面して、海域が広く、海域総面積が9758 平方キロメートルで、海岸線が曲りくねっている。大陸部の海岸線の長さが788キロメートルで、沿海には500 平方メートルを越える島嶼が527個、島の面積が250平方キロメートル強あり、市の大陸部総面積の2.7%を占める。島嶼の海岸線の総長が758キロある。港湾が多く、大陸にくい込んでいて、大陸に近い海域は深水航路の天然資源に恵まれている。沿海の浅瀬が杭州湾の南岸、象山港、大目洋の北岸、三門湾の北岸にあり、面積が10万ヘクタールに近い。市内で甬江の支流が多数流れている。沿海と象山港、三門湾の辺りでは、海に注ぐ谷川や独立した水系を持つ河も数多くある。余姚江と甬江が杭甬(杭州~寧波)運河の寧波流域となり、京杭(北京~杭州)大運河とつながっている。

陸地

寧波という地方は早くも五、六億年前にもう「中国の古陸地」の一部になっていた。長い地質歴史で何回の陸海の変遷を経てきた。約12万年前、第4紀氷河期にある氷期間(二回の氷河期の期間)に地球の気温が温暖化し、氷河が融けて、海面が上昇した。寧波は初めて水没され、平地は大海原になって、魚介類の世界になってしまった。最高の海面は30~35メートルに至った。この状態は約3万年続き、多くの沈殿物を積み上げた。今まで約7万~1.2万年間に、地球の最後の氷河期(つまり大理氷期)の影響で、海面は下がって、規模が大きくて長時間の海退が現れた。寧波地区は完全に露出し、地面がすぐ黄色い硬地層に覆い被さった。約1.2万年~7500数年前、ちょうど大理氷期の後で、寧波地区が再度水没され、今日の慈北平原、寧奉(寧波?奉化)平原と姚江谷間がかつては果てしなくて広がる大海原であった。約7500年前に至って、海面が下がって、やっと今日の海積平原になってしまった。昔、貴駟と兪範一帯を経由して杭州湾に注ぎ込んだ甬江は代わりに招宝山で海に注ぐようになった。今度、海面が下がった結果、低地には大小の湖と沼沢が形成された。谷間の出口で大量の陸源物質は水の流れに外へ流されて緩やかで穏やかな沖積の地形が形成された。またこれは海積平原の上に覆って、銭塘江、甬江及びその支流の長期な氾濫を繰り返した後、その上に波に推し進められて、海積平原と湖の低地は少しずつ覆われて詰まられた。そこで新しい陸地の発育が始まり、今の寧波の地形を形成された。ここ百年以来、杭州湾の南岸、甬江と象山港の出口の両側にいくつか岸の砂浜が次第に堆積して拡張しつつある。一部の浜海平原が絶えずに外へ数キロ延長する。余姚市の羅江に発掘された河姆渡新石器時代の遺跡の地層は直接に海相の地層上に畳んでいる。少なくとも7000年前に姚江谷間を含む相当大きい範囲で海水侵入の影響はもう無くなったのが明らかになった。河姆渡の北側はまた沼沢で、魚類の骨のむくろの中でコイ、アオウオ、ナマズなどがあって、ほとんどすべては淡水の魚類で、東海の海岸線までに相当な距離があることが明らかになる。あの時から、寧波には大規模な海侵がなくなった。

山脈

寧波は福建と浙江沿海の丘陵地帯の北端に位置し、全体の地形が西南部は高くて、東北部は低くて、西南から東北へ穏やかに傾斜している。西南部は浙江省東部の丘陵地帯に属して、高山と丘陵が多い。東北部と中部は寧波?紹興の沖積平原に属して、地形が平坦で、河川が縦横で、土壌が肥沃である。市内の標高が4~5.6メートルある。市には主な山脈として四明山と天台山がある。

一、四明山

寧波の西側にある余姚、鄞県(今の寧波市鄞州区)、奉化という三つの県(市)は、嵊州市、新昌県、天台市と接している。その辺りの四明山はまた句(GOU)余山ともいい、天台山脈の支脈で、甬江と曹娥江の分水嶺である。山はほとんど100~300メートルの高さで、綿々と起伏しており、絶壁が聳え立ち、森林が密生している。最高峰が余姚の大長山で、海抜が979メートルある。二番目は奉化県の黄泥漿岡で、海抜が978メートルある。その次は鄞県の乳部山で、海抜が915.5メートルある。

四明山の由来について、『浙江通志』には、この山脈の280の嶺の中で大兪山という山があり、その山の頂上には「四つの岩窓」があり、形は窯宅に似て、岩窓の穴が四つあり、日月や星の光があそこから洞窟の中に透き通って入るので、「四明」というようになったと記されている。

二、天台山

天台山の主脈は天台市にあり、四本の支脈は寧海県の北西部と南西部から寧波市に伸び、象山港を経て北侖、鄞県東部の山々まで続いている。天台山は綿々と起伏しており、絶壁がそびえたつ。山の高さは300~600メートルあり、最高峰は寧海の双峰望海崗で、海抜が931メートルある。二番目は象山の東搬山で、海抜が811メートルある。その次は鄞州と北侖の間にある太白山で、海抜が657メートルある。この山脈はもともと舟山群島とつながっている。陸海の変遷で舟山群島が大陸と分離された。

島嶼

寧波市は島が531個、面積が約524.07万平方キロメートル余りある。面積が1000ムー以上の島は五つある。一番大きい島は象山県の南田島、島に鎮を設置し、面積が12.8万ムーある。比較的に大きい島にはまた北侖区の大榭島、梅山島で、象山県の高塘島、檁頭山島がある。島の分布する情況を分析すると、ほとんど東南部の沿海に集中し、しかも多くのの島が象山港と三門湾の中にある。全市の島は標高がわりに低く、陸地に比較的に近く、面積が小さくて散らばっている特徴を持っている。

港湾

寧波ではとても長い海岸線、曲がりくねった港湾、果てしなくて広い砂浜、多くて広く分布している島嶼がある。総面積は9758平方キロメートル、海岸線が1562キロメートル、中の大陸海岸線は788キロメートル、島嶼岸線が774キロメートルと、海岸線の三分の一を占める。

港湾の中、深水良港である北侖港と甬江の海への入り江にある鎮海港及び象山県の東における浙江省の四大漁港の一つの石浦港などが有名な港湾である。

地図からはっきりと見えるように、寧波は南と北が「両湾」(三門湾と杭州湾)に嵌め込まれ、真ん中が「一港」(象山港)に嵌め込まれている。この「一港二湾」は寧波の港湾と砂浜のことを描いた。これらの港湾には銭塘江と甬江及び数多くの小川が注ぐだけではなく、長江口の南に位置するため、大量な土砂に栄養物質が混じっている巨大な低塩水系も港湾の沿岸まで流れ込んでいる。砂浜と近海の生物に豊かな飼料を提供している。

一、象山港

象山港は寧波市の海岸線の真ん中の部分に位置している。港湾の南に象山県と寧海県があり、北に奉化県、鄞州区、北侖区があり、港が舟山海域と隣接している。港湾は口が小さくて、水が深くて、東北から西南まで大陸に突っ込んでいる長くて狭くて半分が密封している海湾である。これは海運港にもなっているし、それに、生態環境に恵まれているから、国内にも珍しい理想的な海水養殖基地と砂浜養殖基地でもある。象山港は縦の長さが60キロメートルあまりで、平均の深さが10~15メートルあり、水が深くて澄んでいる。港には西滬港と黄墩港などの優良内港がある。港の外側には59個の島からなっている群島があり、総面積は89万畝で、その内水域の面積が約65万畝があり、砂浜の面積が約25万畝がある。

象山港には台湾海峡の暖流と黄海の寒流が流れ混じっているし、それに沿岸の80本あまりの河も港湾に注ぎ込んでいるので、内外の水交換が活躍になり、栄養成分も豊富になり、プランクトンの年平均産量が東海より少し高くなり、温度や塩の含有量や酸素の含有量やPHなどが海洋生物の生息、繁殖と成長にも適当している。調査によると、すでに分かっている経済的な生物には、魚類は120種類あまり、エビ類は30種類あまり、蟹類は50種類ぐらい、貝類は60種類あまり、藻類が40種類あまりある。

二、三門湾

三門湾は寧波市の最南端に位置している。その北側は象山県と寧海県、その南側は台州地区の三門県である。三門湾は奥が広く、湾口から湾底までの縦の深さは40キロメートルあり、幅が広く、浅い海湾である。三門湾の総面積は91.9万畝あり、その内、寧波市に属している面積は60.3万畝ある。砂浜の面積が26.7万畝あり、水域面積が33.6万畝あり、三門湾の中に、瀝洋港、胡陳港、岳井港などの優良内港がある。三門湾では風も波も穏やかで、砂に富んでいて、砂浜がゆっくりと積み重なっている。湾内の水の底には沖積した厚い沙泥が増えている。それは細い粘土類に属し、ここの砂浜は資源に富み、開発の将来性がある。

三、杭州湾

杭州湾は寧波市の余姚、慈渓、鎮海の北側に位置し、この砂浜と言えば、余姚の臨山から慈渓の西三に続く砂浜が、銭塘江の潮の影響を受け、沖積されてよく変っている。高く沖積された多くの砂浜では水草が群生し、その砂が粉状の沙土に属し、砂の直径が大きくて、潮が落ちる時この砂浜がすぐに乾してしまう。こんな砂浜を埋めたてて田造りに適する。初歩的な踏査により、杭州湾の南岸で寧波市管轄の地域においては、砂浜が60万畝余り、そのうち、近いうちに開発できるのは20万畝あまりある。実は、960年余り前の北宋時代の慶歴七年(1047 年)に、湾岸当たりの住民は最初の泥土の防潮堤を造った。660年余り前の元代の至正元年(1341年)に、その防潮堤は石で造り直され、それは「大沽塘」と言う。明代の初め(14世紀末)に至り、現在の臨山、泗門、周巷、滸山、上林当たりはまである浜辺であった。大沽塘の北側にある慈渓のほとんどは、明代以降で徐々に埋めたてて造られた。その間、海の砂浜で七本の防潮堤を造った。現在はまた第八、九本の防潮堤を、第十本の防潮堤を造っている鎮と郷もある。

潮汐

寧波市沿岸の潮汐が不規則の半日型に属し、一日に満ち潮と引き潮が二回あり、毎回の満ち潮と引き潮の高さが昼間と夜間で違う。満ち潮の平均の高さが3.14メートル、最高の潮が4.86メートルで。引き潮の平均の高さが1.47メートルで、最低の高さが0.13メートルである。甬江の鎮海の入り江における潮が旧暦の一日、十五日の11時15分に満ち、高潮が3メートルほど。市内の「三江口」での高潮は農暦の一日、十五日の1時に満ち、2メートル以上上る。普通、「農暦八日、二十三日には潮は最も低いが、翌日の九日、二十四日にはまた満ち上がる」と言う。

水文

寧波市の河川は二種類に分けられ、一つは寧波市の中部と北部を流れる甬江水系を主とする平原型河川で、もう一つは寧海県、象山県にある山渓流型の河川である。甬江水系は余姚江、奉化江と合流した後形成されるものである。流域面積が4518平方キロメートルで、年平均の流量が25億立方メートルある。甬江水系の川(奉化江は例外)は甬江に流れる前に全部堰の水門を配置して淡水を蓄え、塩化を防ぐ働きがある。

全市は地表水の年総流量が67.24億立方メートルある。内陸の河川網は鄞州区東部と西部、江北区、余姚市、慈渓市などの平原区に分布し、多くの湖とダムが散在している。そのうち、東銭湖は浙江省で最大の内陸湖で、貯水面積が89 平方キロメートルで、普通の貯水量が 4429 万立方メートルある。甬江流域各地の降水日が120日~200日ぐらいある。降雨量は一年に二つのピーク時と一つの最低期があり、ピークが6月の梅雨季節と9月の台風季節に現れて、最低期は7月の副熱帯高気圧の影響を受けた乾季に現れる。降雨量は東北から南西へ少しずつ増加する。沿海と余姚市北部地帯の年平均降水量は 1200~1450ミリある。

水系

寧波は江南の水郷で、主に甬江流域の水系に属し、それは浙江省の八大水系の一つとして、河川には余姚江、奉化江、甬江がある。

一、甬江

甬江は余姚江と奉化江という二本の川が市内の三江口で合流した川である。北東へ流れ、招宝山を経て東海に注ぐ。全長は105キロメートル、流域面積は4581平方キロメートル。幅が270~404メートルある。最大水深が6メートルぐらいで、浅瀬がほぼ3メートル、流れがくねくねしているところもあって、河口がラッパ型で、潮汐の現象が多発している。

二、奉化江

奉化江は三江口までは甬江の主流で、奉化市の斑竹郷にある秀尖山の東南麓に源を発し、南西から北東へ流れ、亭下、溪口、肖王廟を経て江口鎮までの流れは剡江と言い、そして、支流としての県江、東江、樟溪(鄞江)に合流し、寧波市内の三江口で甬江に注ぐ。全長が 98 キロメートル、流域面積が 2223平方キロメートルある。

三、余姚江

余姚江は甬江の主流の一つで、上虞県の梁湖鎮に源を発し、北西から南東へ向かい、上虞、余姚を経て、寧波市の三江口で甬江に流れる。川の流れがくねくねして、水流がゆったりする。全長が105キロメートル、流域面積が2940平方キロメートルある。

上述の三本の川の流域以外、市内と隣接している鄞県の東郷と西郷に各 3本の淡水川がある。東郷に前塘河(即ち横渓河)、中塘河、後塘河がある。西郷に南塘河、西中塘河、西塘河がある。以上合わせて「三江六塘河」と称され、寧波地域の河流運輸と水利灌漑を構成している。東銭湖と皎口ダムの水を市民の飲用水として利用される塘河もある。寧波市を源に流れる河は寧海県の白渓、清渓、裊渓と楊渓がある。

土壌

寧波市の土壌は主に赤土と黄土である。水路網の平原には浅紅土、黄土と青紫土、稲、油菜や麦などの栽培に適する。丘陵山地の土壌は山地黄土、黄土と黄砂土があり、黄土に属し、竹、果物やサツマイモなどの雑穀の栽培に適する。河谷地域の土壌は泥土や砂土等がある。

植生

寧波市は北亜熱帯の南側に位置するので、植生は主に南方植物である。植生は高木、低木、草で種類が豊富である。その内、高木はクス科の植物の葉の特徴を持っている。山岳地帯の自然植生は亜熱帯常緑広葉樹を主にし、落葉広葉樹との混交林である。代表的な樹種がクス、杉、竹、赤松である。ところが、人間の長期にわたる耕作によって、天然植生が大部分農作物の田畑になった。平原地帯の農作物は主に稲、棉、油菜、蚕豆、麦、レンゲ、野菜などである。山岳地帯は赤松、杉、竹のほか、現在茶、ミカン、桃、梨なども栽培してある。

気候

寧波は亜熱帯モンスーン気候に属し、温暖湿潤で、降雨量が多く、四季がはっきりしている。春と秋はやや短く、冬と夏は少し長いという特徴がある。冬はシベリアからの寒気の影響で低温で乾燥する日が多い。夏は亜熱帯高圧帯の下で、高温で多湿となる。春と秋は季節風の転換期で、低温で雨天が続く。年間平均気温が16.4℃で、一月が一番寒く、平均気温が4.8℃ある。七月が一番暑く、平均気温が28.0℃ある。年平均温度の差が24℃ある。全市無霜期間が普通230日から240日で、作物の生育日数が300日となる。年平均総日照時間数が1848.1時間程度で、日照パーセンテージが43%程度である。その地域分布は北が多く、南が少なく、平均差が100時間程度ある。年平均総気温の総数が 5954℃、熱の変数状は比較的に安定し、食糧、棉、アブラナ科などの栽培に適する。

年間降水量が1482.5ミリ程度で、雨天が159.3日ある。3月から5月までの間では前線の影響で雨の日が続き、雨量と雨天がそれぞれ年間総量の24.5%と 18%を占める。6月中旬から7月上旬の末までは梅雨の季節で、陰雨が続き、時に大雨もあり、雨量が年間総量の 17%を占める。7月から9月までは台風の上陸で吹く東風、或いは初秋で不安定な気候の影響で強雨を降らせる。特に9月に、冷たい空気と台風の上陸で、一年中大雨や暴雨の一番多い月になり、雨量が年間総量の13.3%占める。

寧波の四季は夏の初頭に梅雨、盛夏に酷暑、夏と秋に台風、厳冬に寒波という特徴がはっきりしている。梅雨は6月の上旬か下旬に始まり、一ヵ月ぐらい持続し、降水量は年間降水量の25%を占める。7月中旬から8月まで亜熱帯高圧帯の影響によって、高温で降雨が少なく、盛夏に入ると、日照が強く、蒸発量が多い。8月の蒸発量が201ミリに達し、同期の降水量が138ミリ程度で、蒸発量が降水量を大いに超え、時には真夏の水不足を引き起こすとこもある。一部の地域では寒暖気流の共同影響で、雷雨を降らせるところもある。ほかの地域では滅多に広範囲の降水がなく、高温で降水が少なく、棉の生育にいい。しかし、晴天が多く、乾燥しがちである。寧波付近を経路するあるいは上陸する台風が7月から9月の間で多く、強台風が通過すると、災害になる。一方、台風により、降水が多くなり、真夏の酷暑の解除と緩和にいい。災害になる台風(普通降水量が50 ミリ程度で、瞬間最大風力が8級)は毎年2回程度ある。

人口

寧波人口の急増がインフラ整備、就業、社会保障及び社会治安、計画出産などに影響している。2009年寧波市の戸籍人口が571万人で、前年より5.16‰増加した。

人口構造の変動が全体的に安定しているが、高齢化が進み、60 歳以上の高齢者数が98.8万人、昨年より5.12万人増加した。市の経済や社会の発展に従って、流動人口の規模も増大しつつある。2009年一時滞在人口が394万人近く、昨年より9.5%増加した。義務教育を受ける出稼ぎ労働者の子女の人数が2000年の1.992万人から2009年の22.4万人に増加した。2020年までに寧波市の戸籍人口が増え続ける一方で、出産率が 2001 年の 0.925 から 2020年の 1.5 に上がる見通し。人口総数が引き続き増加見込みである。社会や経済の発展、産業構造の転換に伴い、労働力に対する需要が拡大され、寧波への人口移動が続き、人口総数が急速に増加する見通しである。

2009年、市では各種類の学校が(幼稚園を含む)2289校、在校生が137.6万人。その中、大学及び社会人向けの大学在校生が18.86万人(社会人大学在校生 5.2 万人)、高等教育の入学率が 49%に上った。中等職業学校の在校生が 8万人、普通中学校の在校生が33.3万人、高校の入学率が98.7%に上った。小学校の在校生が45万人、幼稚園在園児が22.6万人、特殊教育学校の在校生が739人。市の11の県(市)、区が浙江省教育の進んでいる県、132の鎮(郷、町)の中で、130 が省教育の進んでいる鎮、省クラス以上のモデル学校(社会人学校を除く)が344校に上った。

歴史?沿革

寧波は唐代には既に揚州、広州、交州(今、ベトナムに属する)と並び、中国の対外貿易港の一つであった。朝鮮、日本や東南アジアなど各国と頻繁に往来して、海上シルク?ロードと陶磁器?ロードの東方始発港の一つでもあった。北宋淳化三年(992年)、寧波には対外商事と税金事務を扱う市舶司が設けられ、当時全国のトップスリーであった。清の初め、市舶司を税関に改せ、天津、上海、広州と並び、全国での税関のトップフォーであった。鴉片戦争後の 1844年に、寧波は「五口通商口岸」の一つとされた。1927年7月1日、寧波は市として設立され、1931 年に撤去され、改めて鄞県に属され、城壁も取り除かれた。1937 年、上海?杭州?寧波鉄道が全線通行となった。1949 年 5 月 25日、寧波は解放された。

歴代の行政区画

寧波の歴史は、海に結びついていると言えよう。7000 年前、寧波人の祖先は既にオールと高床式の木造建築によって、山に背向く海に臨む海洋地帯の特徴をもっている河姆渡部落を創立した。

寧波の歴史が紀元前2000年あたりの夏の時代から記された。志書により、夏の時代に菫子国があり、赤菫山に因んで、邑を加え鄞になったということである。寧波の古称である「鄞」の由来である。春秋時代、寧波は越国の領土で、春秋後期、越が楚に滅ぼされ、楚の属地になった。

紀元前222年、秦始皇によって楚が平定され、会稽郡が設立された。寧波は、会稽郡の鄞、鄮、句章の三つの県に属された。この三県の治所(役所)は、今の寧波市市内にはないが、市内を流れる余姚江、奉化江、甬江を境として区画された。鄞県は三本の川の南側にあり、今の奉化市の東南部と鄞州区の西南部を含み、県役所を今の奉化市白杜に設立した。鄮県は東の方にあり、今の寧波市江東区及び東郷地方を含み、県役所を今の鄞県宝幢の鄮山同谷に設立した。句章は三本の川の西北にあり、今の江北区、慈渓、余姚一帯を含み、県役所を城山即ち今の江北区の乍山城山渡の近くに設立した。

両漢(前漢、後漢)、三国時代から魏晋南北朝時代まで、三県は、従属した州、国、郡の名称は変わったことがあったが、管轄範囲は基本的に変わらなかった。隋開皇九年、三県を余姚と合弁し、句章県と称された。県役所を小渓(今の鄞州区鄞江鎮)に置き、相変わらず会稽郡に属された。唐高祖武徳四年(621年)、越、嵊、姚、鄞など11の州を管轄する越州総督府を置いた。句章、鄞、鄮という三県は鄞州に属し、州役所を今の寧波市の三江口に置いた。武徳八年(625 年)、鄞州と句章県を廃止し、鄮県の名称を回復し、鄮県の県役所を小渓(今の鄞州区鄞江橋)に移した。唐太宗貞観元年(627年)、全国を10道に分け、鄮県は江南道に属された。

唐玄宗開元二六年(738年)、鄮県を慈渓、奉化、翁山(今の定海県)、鄮県と4つに分け、別に明州を設立して、それを管轄させる。明州の州役所と鄮県の県役所は相変わらず小渓にあり、慈渓の県役所は今の江北区慈城鎮、奉化の県役所は今の大橋鎮西、翁山県は頊河の畔に新しい城を建て始めて役所を置いたが、後で鳌山の麓に県役所のある町を造った。「明州」との名が唐代から称され始めたのは寧波に四明山があるためである。

唐の玄宗皇帝の天宝元年(742 年)、明州が余姚郡に改名されたが、唐の粛宗皇帝の乾元元年(758 年)、また明州に改名された。唐の代宗皇帝の広徳二年(764年)、象山県を明州に管轄させ、明州は4県から5県を管轄するようになった。唐の憲宗皇帝の元和年間、鄮県の東側から甬江の入り江辺りまでを分割して望海鎮を設立した。唐の穆宗皇帝の長慶元年(821 年)、明州役所を小渓から三江口に移し、又子城を建てた。それは、千年余以来寧波都市の発展の基礎を固めた。五代の時、明州を明州望海軍に改称し、鄞県、慈渓、奉化、翁山、望海との五県を管轄した。宋太祖建隆元年(960 年)、明州望海軍を明州奉国軍に改称し、鄞県、奉化、慈渓、定海(今の鎮海)、象山、昌国(今の定海)との六県を管轄した。南宋紹興三年(1133年)、沿海制置使を置き、温州と台州と明州と越州の四郡を管轄した。南宋慶元元年(1195年)、明州奉国軍を慶元府に昇格した。上の六県を統領し続けた。元世祖至元十三年(1276年)、慶元府を慶元路に改称した。大徳七年(1303年)浙東道都元帥府を設立した。朱元璋洪武元年(紀元1368年)、慶元路を明州府に改称した。明洪武十四年(1381年)、明という国号を忌むため、朱元璋は鄞県の単仲友の話「海が安らかになれば波も安寧になれる」により「寧波」と改称し、その名を今まで使って来た。清順治十五年(1658年)、寧紹台道を設け、役所を寧波に駐在させた。清代、寧波府は鄞、慈渓、鎮海、奉化、象山との五県を管轄した。

民国16年から20年まで(1927~1931年)、政府は鄞県を合弁し、寧波市を設立した。1949年5月25日に、寧波は解放された。1949年11月、寧波市は海曙、鎮明、江東、江北との4区を設立した。鄞県を寧波市の管轄外にして、寧波市を省の管轄市にした。同時に、浙江省第二行政公署を設置し、後に寧波専区に変わり、鄞県、余姚、慈渓、鎮海、奉化、定海、象山との七県を統轄した。1952 年、台州専区管轄の寧海県を寧波専区に所属させた。後に管轄の県が変り続き、政域の最も広い1961年には十三の県と紹興市を管轄した。1962年、定海県は寧波専区から分けられ、舟山専区を設置した。1958年、鎮海県、鄞県を撤去し、寧波市に合併させた。1961年、1963年、鄞県と鎮海県は相次いで県建制を恢復し、その両県の管轄権は寧波市から寧波専区に移し戻った。1978年、鎮海県をまた寧波市に合併させた。1983年7月、国務院の許可により、市が県を管轄する体制を実行し、寧波地区行政公署を撤去し、管轄していた鄞県、余姚、慈渓、奉化、定海、象山との六県が寧波市に管轄されるようになった。1984年1月海曙、鎮明両区を海曙区に合併し、その郊外の管轄権を江北区に移した。1984年4月、国務院は寧波市を対外開放の14の沿海港口都市の一つにすると決定した。寧波市内には、海曙区を鎮明区と合併して海曙区と称し、江東区と江北区の行政区画を適切に拡大した。1985年7月、鎮海県を撤去し、甬江を境にして鎮海区と濱海区(後の北侖区)を分設して、市管轄の区となった。国務院の許可により、余姚県を余姚市に改称した。1986 年寧波市は全国歴史文化名城と登録され、1987 年国務院は寧波市を財政上単独計画都市にした。1988年10月慈渓県と奉化県も相次いで市(県クラス市)になった。1994年、国は寧波を副省級都市(副省級都市の市長は副省長と同じ序列で、経済?財政と法制の面で省と同程度の自主権が認められている)にすると許可した。2002年1月国務院は鄞県を鄞州区に改称し、寧波市の一つの区となった。2008年は、寧波市は海曙、江東、江北、鎮海、北侖、鄞州6区、寧海、象山2県、余姚、慈渓、奉化3市(県クラスの市)を管轄している。その下に57の街道、80の鎮、11の郷を設置した。

寧波の略称の「甬」は周の時代からよく知られてきた。寧波の最も大きい川は甬江で、その甬江は甬山から名づけられ、甬山は鄞県と奉化の境にあり、形が鐘に似ているので、象形文字の「甬」と名をづけられた。その一帯を甬地と言われてきた。

城廓建造

寧波の城廓建造は、東晋時代に遡ることができる。晋安帝隆安四年(400年)、孫恩の武装蜂起を防ぐために、晋の将軍の劉牢之によって築城された。当時、三江口周辺で土壁を一面造り、他の三面では兵隊によって防ぎ守った。それが寧波城廓の原型であった。『乾道図経』には「西城外にあった城基の上に竹が植えられるので「篠墻」と称された」と載っている。後人はその「篠墻」を「筱墻」に誤伝し、今の寧波の西門外に筱墻小巷がその原址である。

唐穆宗長慶元年(821 年)、明州仕官韓察は明州の州役所を小渓から三江口に移し、「子城」という内城を造った。その周りは420丈(1丈=3.03メートル)あり、それを仕官役所にした。今の中山路にある「鐘楼」がその「子城」の南城門である。

唐乾寧五年(898 年)、黄晟が明州仕官と任命され、明州が地理的には要であるが、城廓はなく、また民衆が散居し、常に強盗などに侵害されることがあるから、民衆を募集し、明州の地形に沿って、土や石を運んで城を造り、羅城と名づけた。周辺9キロあり、雄壮綺麗であった。史籍に「郡にはもと城廓がなく、民衆が野居の如く、晟によって舎湯を建て海嶠を固めた。強盗の略奪を断絶し、全州の安定を保った」との記録がある。それが旧城の原形である。

貿易港

寧波の水上運輸と港の歴史は7000年前の河姆渡の新石器時代まで遡ることが出来る。河姆渡の遺跡に出土された6枚の木櫂、1隻の陶器の船模型と若干の魚の骨は寧波が7000年前もすでに船を製造することができたということを証明した。『周書』に「周成王の時(紀元前1024~1005年)、於越から舟が献上された。」と記載している。『竹書紀年』にも、戦国の時代、紀元前812年、越王は魏国に人を派遣し、船を贈ったと記載されている。当時贈った船は貢ぎ物で、周と魏の政治中心まで漕ぎついた舟は長い海路に耐えてきたわけで、構造上で完備した船舶であろうと専門家が見ている。

古代、寧波は「鄮」と称されていた時期があった。これは、地元の住民と海外の人が寧波に集まり、貿易を行い、それに寧波が日増しに繁栄してきたことで、「貿」に「邑」をつけ、「鄮」になり、「鄮県」と称されたわけである。歴史文献には、「町の中では其処の魚介類を貿易し、故に鄮県と呼ぶ」という。『陸士龍集』の記載によると、秦の始皇帝の三十七年(紀元前210年)、「始皇帝は南部地方を巡視し、会稽山に登り、石に文を彫り、鄮県に三十日余り留まる。」と言う。始皇帝は鄮県での所為について、地方誌によると、「秦の始皇帝は東の郡や県へ巡幸し、会稽山を登り、功績を石に彫った。徐市(徐福)は書面を奉り、海上に方丈、蓬莱、瀛州という仙人の居場所があり、斎戒してから少年少女を連れ、不老長寿の薬を求めてくると述べた。従って、数千人の少年少女を連れて徐市を遣わし、海に入り、仙人に求める。」と言う。その記載から見れば、徐福が海に出た所は今の寧波市の慈渓の達蓬山である。これで、当時寧波の造船技術と航海事業が発達していたことが分かる。『史記?東越列伝』には、「東越王余善が謀反を起したことで、漢の天子は将軍楊僕を派遣して余善を討伐する。楊僕は将軍の韓説を動かし、句章(今の寧波)から出発させ、海を渡させ、東に進撃させた。」と記載されている。『三国誌?孫権伝』には「呉大帝黄龍二年(230年)の春、孫権は将軍衛温と諸葛直を派遣して、兵士数万人を連れて、海を渡って、夷洲と亶洲を攻め落とした」と記載され、それにより、後漢と三国の時、寧波はすでに重要な軍事の港になったということが分かる。

唐の時代、「海外の諸国は船で寧波に来て商品を取り引く」というように、寧波の海外貿易はすでに相当的に発達してきた。寧波に産出した越窯青磁という磁器及び絹織物などの物産は広く海外へ輸出された。寧波は日本や高句麗及び東南アジアの20数国と地区と頻繁的に貿易を行っていた。それに、寧波は揚州、広州と並び、対外貿易港のトップスリーとなった。

宋の時代になると、寧波は淳化元年(990年)に、海外各国の商人の事務と関税徴収の事務を監督した「市舶司」を設立した。その市舶司はその時の全国の三つの市舶司の一つである(他は広州と杭州にあった)。その同時に、寧波は全国のトップスリーの対外貿易港の一つ(他は泉州と広州)でもあった。特に、南宋の時代に、寧波が首都の臨安(今の杭州)の近くで、対外貿易の地位が更に高まった。

元の時代にも、寧波は相変わらずわが国の重要な海運と対外貿易の港であった。当時、国は寧波(当時は慶元に改称)、泉州、上海、矙浦に市舶司を設立した。

明の時代の中前期に、寧波には市舶提挙司、提挙庫、海倉館、税課司、嘉賓館などの機構が設けられた。寧波は依然として対外貿易における重要な地位を占めていた。後期になると、特に、明の嘉靖二年(1523年)の時、寧波には「日使争貢」という事件(寧波の乱)が発生した。寧波は日本の遣明船の人に焼き払われ、奪われ、役人が殺された。その後、また何度も倭寇にかき乱されてしまった。それで、朝廷は市舶を停止し、寧波の市舶司を廃止し、海外通商を禁止するという命令を下した。

清の時代の初期、康煕二十四年(1685 年)、寧波に税関を設け、対外貿易を盛んに発展してきた。清の乾龍二十二年(1757 年)、清の政府は鎖国政策を取り、「海禁」を実行した。清の政府は鴉片戦争の敗戦後、1842年8月29日に、主権を失い、国を辱める『南京条約』を締結した。寧波は「五港通商」の港の一つとして開港された(ほかの四つは広州、厦門、福州、上海である)。各国の列強は税関を制御し、対外貿易を独占するために、次々に寧波に領事を設け、使者を派遣してきた。このような状況が中華人民共和国の誕生まで続いていた。

寧波なしには商いなし

民間に「寧波なしには商いなし」という諺がある。それは、寧波人は商売に長け、どんなに遠いところでも、市場があれば、寧波人が必ず行くという意味である。それに、「寧波なしには市なく、紹興なしには役所なく、安徽なしには商人なし」という言い習わしもある。

「寧波なしには商いなし」は寧波の商人が市場の開拓に果たした役割を喩えている。寧波人に商売する人が多い。全国に足跡を残しているだけではなく、国際の市場にも身を置いてきた。東南アジア及び欧米の各国にも豪商になった寧波人がいる。「寧波なしには商いなし」は寧波の商業が早い時期に発達していたと言っている。寧波の市街地の範囲は唐の時代に大体形成された。821年に、明州の州役所は小渓から三江口に移され、州の城壁も建築された。北宋の時代になると、992年に、浙江の市舶司が杭州から明州に移されたから、江厦街のあたりは有名な商業区と対外貿易の重要な港になってきた。明の初期(14世紀の中ごろ)、寧波の市内にデパートが8軒と城門外の市が4ヵ所あった。清の乾隆年(1736~1795年)に、もとの市内範囲には700軒あまりの商店があった。19世紀の60年代になると、寧波はすでに銭荘業、質屋業、食糧業、漁業、薬種業、南北品物業を中心とする商業組織を形成してきた。20世紀(1900年)に入ると、寧波市の人口が30万人に達した。12万人の雇用労働者の内、7万人あまりは商業関係の業者に雇われた。1931年に、寧波には商店が5599軒あり、商業が盛んになり、都市と農村の取引も活発になった。このようなことから分かるように、寧波人は強い商売観念がある。商いを業にし、商いによって富を作る人は絶えず出てくる。全世界で名を揚げた「寧波邦」は経営がうまく、顕著な業績をあげた商人グループであり、人に注目された企業家のコロニーでもある。大ざっぱな統計によると、目前、原籍が寧波であった30万余りの人及びその後裔は海外の67の国と地域で活躍している。その内、所在地の商工業界リーダーになった人も少なくない。「寧波邦」はもっとも代表的な中国商人で、もっとも早く創立された商人のグループである。「寧波邦」は明の時代に形成されて以来、いつまでも結束している。この数十年、「寧波邦」はまた全世界で活躍し、国内と海外の誉れが高くなってきた。以前、「寧波邦」の商業道徳は「寧波邦」の精神と呼ばれていた。つまり、志を立てることを最優先にすること、真心と信用を原則にすること、勤勉で節約で家を経営すること、仕事を尊敬し、国を愛すること、一致団結というのは中華民族の伝統的な美徳である。

文献の記録により、唐の顕慶四年(659年)に、日本の遣唐使の船舶の最初の上陸地は鄮県の「三江口」であるという。唐の大歴六年(771 年)、「三江口」は郡県の役所の所在地になり、唐の長慶元年(821年)、明州役所は小渓から「三江口」に引っ越された。唐の貞元年二十年(804 年)、日本遣唐使の船舶が4隻来唐し、そのうち、127人が乗っていた副使の石川道益の船舶は直接に明州に到着した。翌年、正使の藤原葛野が乗った船も明州に来て、2 月に明州の港から帰国の旅に出た。天台宗の創始者の最澄法師は上述の127人の内の一人で、帰国の時、天台山から明州に至り、それから明州から出発した。唐の時代に、アラビアとペルシャの商人も明州に活躍していた。ペルシャで出土された唐の陶器はその証拠である。唐の長慶三年(823年)、刺使(州の長官)応彪は霊橋の城門の南に橋を架設した。架設された橋は東西交通の要路で、直接に賑やかな通りと繋がり、最初は「霊現橋」と呼ばされたが、後は?霊橋?に変えられた。従って、唐の時代に、城外にすでに国際的な海運港が形成され、賑やかな市に発展してきた。北宋の時代になると、ここに石造りの海運港だけが建てられたばかりではなく、宋の朝廷が対外貿易の需要により、明州に海外からの船舶を管理する市舶司も設けられた。そして、霊橋城門の北に?来安門?と称されている市舶務城門も設けられた。宋の時代に、城外に有名な江厦寺が建立された。江厦港と江厦街はこの江厦寺に因んで名づけられた。南宋の紹煕年間に、福建からの船舶商人は江厦港にまた雄大で、高く聳え立っている天妃宮(媽祖廟)を建てた。

ここはアラビア、ペルシャ、日本、高句麗などからの商人が物資を交換する場所となり、国内の南北商品の船舶の中継輸送と販売の主な市でもあった。江厦の商店街には賑やかな光景を呈していた。特に、「五口通商」の後、寧波の商業が盛んになったことはある。19世紀の60年代に至り、寧波の銭荘、南北の商品店、魚屋はいたるところに分布していた。「天下に寧波江厦に及ぶ所はない」とまで言われるようになる。

海上シルクロード

20世紀60年代に、日本の学者は陸上「シルクロード」を区別するために、「海上シルクロード」という言葉を作って使うようになった。陸上にしても、海上にしても、「シルクロード」は東と西を繋がる交通や貿易や文化の道である。今になっても、海洋に近い国々?地区の港都市は先を争って、「海上シルクロード」を研究する研究所、博物館、記念館を設け、常に内容が豊富で様々な催しを記念活動として盛大に行っている。中国では文化歴史名城として登録された都市が102個、そのうち、広州、泉州と寧波(明州)は「海上シルクロード」で名を馳せている港町である。

寧波は「海上シルクロード」に関係が深くて、歴史が長い。太平洋の西側で暮らす寧波の先住民は、早くも7000年余り前から海で漁撈をして、河姆渡の遺跡から出土された炭化籾、木櫂、陶器の船模型と海洋動物の骨はその証しである。

春秋戦国時代に入って、当時浙江東部の句章港は中国の九つの港の一つであり、越国が海への窓口でもあった。諸侯が覇権を争うことによって、造船業が発展され、海外への航路が四方八方に通じていた。1973 年に鄞県で出土された戦国時代の羽人競渡銅鉞、日本の太宰府遺跡で出土された三角縁神獣鏡、晋代に天竺の僧侶の那羅延によって建立された五磊寺、魂瓶造型や蓮の実の模様の越窯青磁はいずれも海洋文化交流の証である。

唐代、宋代以降、寧波が中国の対外交流と貿易の重要な港町となり、歴代において磁器が輸出する重要な港であった。広州、揚州、交州と名を並び、「海上シルクロード」のトップツの国際的な港となった。明州は東方の商業都市として、日本、高句麗、東南アジア及びアラビア諸国との友好往来は史書にも記録されている。

一、日本

唐の時代、日本からの遣唐使が明州に幾度も上陸した。

中国の名僧鑑真和上が日本へ渡海する前明州に住んだことがある。それに、当時の明州漆器や民間工芸品を日本に持って行かれた。

唐の貞元二十年(804年)、日本の有名な遣唐留学生阿倍仲麻呂が明州に到着。

唐の咸通三年 (862年)、日本の頭陀親王が明州に上陸して長安に向かう。

北宋の熙寧五年(1072年)、日本の名僧尋成が明州へ、宋の神宗皇帝に接見。

南宋の乾道四年(1168 年)、日本の名僧重源が宋に入り、その後三度も宋を訪ね、唐式の建築技術を習得してから阿育王寺の舎利殿の建立に協力。

南宋の紹熙元年(1190 年)、日本の名僧栄西が唐式の建築技術を日本に取り入れ、明州の天童寺千仏閣の建立に協力したため、宋の孝宗皇帝が栄西に「千光法師」という尊号を授与。

南宋の宝慶元年(1225 年)、日本の僧道元が明州の天童寺に入り、如浄禅師のもとで修行し、帰国したあと曹洞宗を創立し、明州の天童寺を日本の曹洞宗の本山にする。

明の成化四年(1468 年)、日本の名絵師雪舟が明に至り、天童寺に住んで浙江の山水画派の技法を学び、「天童第一座」と尊称され、日本へ帰ったあと日本の水墨画を一変させる。

清の順治十六年(1659 年)、著名な学者朱之瑜(号は舜水)は鄭成功の対清戦争の敗退後、日本で暮らした。長く長崎、江戸で塾をした。日本で「孔子」と呼ばれ、中日文化の交流に偉大な貢献をした。

二、高句麗

北宋の太平興国七年(982年)、高句麗の名僧義通が天台国清寺で留学し、天台宗第十七祖として高句麗天台宗を創立した。宋の太宗皇帝は義通が住んでいた「甬上教院」を「宝雲寺」の名を授与。

北宋の熙寧年間(1668~1077 年)、朝廷が明州州役所のある宜秋坊で同文館を設けて、高句麗の蕃使と会見。

北宋の元豊二年(1079年)、明州の鎮海に「楽亭」と言う高句麗貢使館を建て、その亭を「航済」と呼ぶ。

北宋の政和七年(1117年)、宋徽宗から同意を得て、明州長官の楼異が月湖の東岸で高句麗使館を建てた。1999 年、寧波の考古学者が月湖の東岸で発掘するとき、宋の高句麗使館遺跡を発見。

三、東南アジアとアラビア

北宋の淳化三年(992年)、闍婆国王が宋に出使するため、明州に至った。大観三年(1109 年)、闍婆国王が使節を派遣して宋に入り、珍獣、タイマイ、ダイヤモンドの指輪などを宋の朝廷に捧げた。朝廷もたくさんの返礼を送った。

宋の時代、真里富(今のカンボジア)の大商人が慶元(寧波)で病死し、長官の趙伯圭が部下を派遣してその人の遺体を祖国に帰らせ、そして、その商人の財産も家族に帰還した。

南宋の時代、ペルシアの商人が明州の町の東側に住んでいて、「回回堂」を建てた。

南宋の紹興十四年(1144 年)、明州の天封塔の地宮には南洋の七大珍物の一つの車渠(インド洋と太平洋の珊瑚礁に生息した貝の一種類、重さは250キロ以上あり、その肉は食用できる)、水晶、ガラス瓶が供えてある。

元の貞元元年(1295年)、元の使者周達観は慶元(寧波)港を出発し、真腊(今のカンボジア)に到着。翌年、明州に帰って、「真腊風土記」を著した。

当時、寧波で生産した越窯青瓷が日本、高句麗、東南アジア、アラビア、ヨーロッパとアメリカなどへ輸出していた。20世紀50年代以来、世界各地で越窑焼きの磁器がたくさん出土された。1976年、韓国の新安海底で元代慶元(寧波)から日本への沈没船が一艘発見された。輸出瓷器を一万点以上引き上げて、一時世界を沸き立たせた。

近代、第一回鴉片戦争後、寧波を「五口通商」貿易港の一つとして外国に開放されたため、甬城会館(同郷会)が次々と組み立てられた。特に天後(媽祖)が一番尊敬されていた。媽祖とは中国沿海の百姓たちが崇拝している東方海上の守護神である。寧波との繋がりが歴史の流れで、相当深いと言われる。北宋の宣和五年(1123 年)、宋徽宗が媽祖に「順済」と書いた横額を授けた以上、媽祖の信仰が明州港の陰で全国の範囲で認められるようになった。寧波市の三江口の東岸にある天後宮(慶安会館)はまた「甬東天後宮」と呼ばれ、中国の八大天後宮と七大会館の一つとして、江南地域では天後宮と会館を一体化して存在している唯一の古代建築群で、2001年6月に中国国務院に「中国国家重点文化財」と登録された。

今、「海上シルクロード」についての研究、幅広い宣伝が勢いよく発展しつつあり、寧波を中国「海上シルクロード」の始発港として世界文化遺産を申請すべきという声も増える一方である。寧波の学者もその動きを見極め、2001年12月上旬に「寧波及び海上シルクロード文化」国際学術シンポジウムをきっかけに、中国の専門家が寧波が広州と泉州と協力して、中国の「海上シルクロード」の始発港として世界文化遺産を申請するという「寧波共識」に達成した。寧波には古い時代から保存されたとても貴重な文化遺跡がたくさんある。例えば、天封塔、天童禅寺、阿育王寺、ペルシャ港遺跡、高句麗使館遺跡、モスク、四明宿駅旧跡、普済寺経幢、雪竇寺、鎮海招宝山下造船工場遺跡、明州府造船という宋徽宗が書いた石文、日本駐在華僑石文、東門口交郵ビル建築現場で出土された宋の海洋船、宋船の竜骨、宋の海運港遺跡、天後宮などは、中国の「海上シルクロード」の始発港とする寧波の歩みを記録した。確実な文献記載と科学的な考古発見によって、寧波人は自分自身の歴史文化価値と文化遺産を保護する理念を再び認識し、理性的に理解した上、この「海上シルクロード」という人類発展の道を絶え間なく広げて、伸びていくこそ、寧波が永遠に活気のあふれる、魅力のある都市として栄えたということを改めて語るように見える。

九百年以上前、北宋の神宗皇帝の元豊元年(1078 年)、朝廷は安焘、陳睦を使者として派遣して、高句麗を訪ねるため、明州(寧波)で大船を二艘製造すると命じた。その二艘の船は「凌虚致遠安済神舟」と「霊飛順済神舟」と呼び、「定海(今の寧波市鎮海区)から海を渡って」、高句麗に到着した。宋徽宗宣和五年(1123 年)、朝廷は徐競を使者として高句麗へ派遣した。その二隻の大船もまた明州で製造されたのである。その名前は「鼐新利渉懐遠康済神舟」と「循流安逸通済神舟」と呼ばれた。立派な造船技術は海外でその名を馳せていた。

寧波の「海上シルクロード」の文化遺産が何時までも残そうと期待が寄せられている。そして、新世紀で再び奮い立てた寧波は「現代化国際ポートシティー」という目標で、新たな「海上シルクロード」を歩んでいく。

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